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京都の三大祭...  葵祭|祇園祭時代祭

◆ 葵祭の由来と歴史

目に鮮やかな新緑の頃、京都の都大路を飾る平安絵巻。京都最古の祭りです。

賀茂祭かもまつり
葵祭は、平安京建都(794)の百年以上も前から上賀茂、下鴨、両神社の祭礼として行われ『賀茂祭』と呼ばれていました。今でも流鏑馬(やぶさめ)に見られるように、当時は勇壮で荒っぽい祭りで、その荒々しさを見るために近隣近郷から多くの人馬が集まる有名な祭礼でありました。平安時代に入り、嵯峨天王の時代になると、賀茂祭は、石清(いわしみず)八幡宮の岩清水祭や春日祭とともに三大勅祭(ちょくさい、国営の祭)となり、岩清水祭が『南祭』と呼ばれるのに対して、賀茂祭は『北祭』と呼ばれるようになり、一層、著名な祭となっていき、祭といえば葵祭のことを指したといいます。この頃から、賀茂祭は雅びやかな祭りに変化していき、多くの人が美服、美車で参加し、都大路を賀茂神社にむけて行列するようになりました。その後、この行列(パレード)は、一層、華美さを増し『源氏物語』『今昔物語』『徒然草』などの多くの書物に登場するようになります。

葵祭あおいまつり
華麗な服に、美しく飾られた車(牛車、ぎっしゃ)、頭にカモアオイ(フタバアオイ)の花を挿して、華々しく行われていたパレードですが、やがて中世に入ると、財政難により、華やかさは、だんだんと失われていき、ついには1467年から11年間続いたの応仁の乱によって完全に中止となります。その後、華々しいパレードが再開されたのは、それから二百年以上経った元禄七年(1694)のことであり、この時から『賀茂祭』は『葵祭』と呼ばれるようになりました。昔、カモアオイの花を頭に挿して行列した事からこう呼ばれるようになったとも、祭の復興に『葵の御紋』の徳川幕府の多大な援助があったからとも言われています。

現在の葵祭
明治になり、東京遷都で一旦すたれた葵祭ですが、明治17年(1884)から再びおこなわるようになり、この時から5月15日が祭日となりました。第二次世界大戦後は昭和28年から再開されています。また、現在でも15日当日には天皇から勅使が遣わされ葵祭が始まります。現在のパレードは、乗尻(のりじり、昔の賀茂競馬の騎手)の騎馬6騎を先頭に、
第1列 : 平安京の警察であった検非違使(けびいし)のと山城国(現京都)を治めていた山城使およびその従者たち
第2列 : 御幣物をかつぎ供奉(ぐぶ)する官人、馬を管理していた馬寮使(めりょうつかい)、紫の藤の花で飾られた御所車
第3列 : 勅使と勅使に従う舞人(まいびと)
第4列 : 楽を奏する倍従(べいじゅう)と内蔵使(くらつかい)、花々で飾った風流傘(ふりゅうがさ)
そして、十二単(じゅうにひとえ)で腰輿(ようよ)に乗る斎王代と斎王列、それに従う女人たちの列
馬36頭、牛4頭、総勢約500名、まさしく平安絵巻の優雅で華やかな王朝行列が約1km続きます。

流鏑馬やぶさめ
馬で走りながら、馬上から俵の的を弓で射ぬく行事。 平安時代以前の葵祭(賀茂祭)の主要行事。太古の昔は実際に猪などを追いかけて馬上から騎射ぬき、腕を競い合っていました。京都に平安京ができる前の葵祭(賀茂祭)は、このように勇壮なものでした。現在では、葵祭にさきだち、5月3日に下鴨神社でおこなわれます。また、15日には2頭の馬でスピードを競い合う、古式にのっとった『賀茂競馬(走馬)』が上賀茂、下鴨、両神社で行われます。

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◆ 日程と地図

葵祭
5/3
下鴨神社にて 流鏑馬(やぶさめ)
5/4又は上旬の日祝
斎王代以下女人列の御禊(みそぎ)の儀
5/5
武射(ぶしゃ)神事
5/12
御陰祭、御阿礼神事
5/15
葵祭

〜葵祭当日〜
早朝‥勅使を京都御所に迎えて宮中の儀。勅使が御祭文と御幣物(ごへいもつ)を授かる。
10時30分頃‥路頭の儀の祭列が京都御所正面の建礼門前から出発。丸太町通、河原町通を通り、下鴨神社へ向かう。
正午前‥下鴨神社へ到着。社頭の儀。御幣物を献じ、御祭文を奏上した後、東遊を奏し、走馬の儀。
14時過ぎ‥再び行列をととのえて、北大路通から賀茂川畔の街道を通り、上賀茂神社へ向かう。
15時30分頃‥上賀茂神社到着。再び社頭の儀が営まれ、走馬(山駆け)が行われる。

問い合わせ: 京都市観光協会 (TEL.075-752-0227)


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