五山の送り火(大文字の送り火)  HOME > 京の知識 > 大文字の送り火


◆ 送り火の起源

公式記録の残っていない大文字の送り火
今では夏の風物詩として有名な大文字の送り火ですが、その起源や由来が謎に包まれている事は意外と知られていません。長らく日本の首都であった平安京では、そのほとんどの行事や風物は朝廷などによる公式な記録が残っていますが、大文字の送り火については、そのような公式記録がなく、「いつ、だれが、何のために」始めたのかは、謎のままになっています。「あくまでも民衆による自発的な行為だったので記録されなかったのでは」とも言われていますが、今でも現代人の目を惹く大文字、昔の人々にとっては、さぞかし夏の夜の一大パノラマだったでしょう。その大文字に朝廷が何の意見も述べていないのは不思議ですし、また昔は京都周辺のほとんどの山々で送り火が燃やされていた時期もあるとも伝えられており、そのような事が朝廷の許可なく行われていたとは考え難いです。それとも、山々に灯す送り火は、わざわざ書き留める必要もないほどの自然な行いだったのでしょうか。その謎を解きあかすには、「日本人とお盆」、「京都でのお盆」を探ってみなければなりません。

盂蘭盆うらぼん
もともとお盆とは中国から伝来された仏教行事のひとつ盂蘭盆(うらぼん)の略で、日本では盂蘭盆会(うらぼんえ)とも言われています。語源は梵語のウランボーナで、逆さ吊りの苦しみをあらわします。ある時、釈迦の十六弟子の一人である目連は、自分の生母が餓鬼道に落ち、逆さ吊りに苦しんでいる事を霊感しました。そこで7世代前までの父母の霊を救うために百種の供物をしたというのが盂蘭盆の始まりとされています。実際の盂蘭盆は中国では6世紀に梁の武帝が初めて執り行い、日本では7世(657)に齋明天皇が初めて行ったと日本書紀に伝えられています。もともと日本は、世界の中でも祖先崇拝の強いところだった、と日本神話の研究などから考えられており、以前から行われていた祖先供養の行事に盂蘭盆が加わり、日本独特のお盆行事へ変化していったと考えられています。

火と黄泉の国
8月13日に迎え火を燃やし祖先の霊を我が家に迎え、15日か16日に送り火を燃やし祖先の霊が黄泉の国(よみのくに)へと帰るのを送るのが日本でのお盆の習わしで、15日がお盆当日となります。この迎え火と送り火の事を、おもに門辺で燃やしていたところから門火と言います。大文字の送り火も、この門火のひとつとされています。なお、旧暦ではお盆は7月に行われていました。旧暦で7月は秋となり、俳句の世界でもお盆は秋の季語となります。立秋も迎え、時候の挨拶も『残暑厳しき折』となる現在の8月に行われるのが、新暦では季節的に合うという事になります。さて、霊(み魂)の帰っていく黄泉の国とは、どこにあると考えられていたのでしょうか。 それは、海の彼方とも、高天原(たかまがはら)とされる天上とも考えられていましたが、平安京の人々は山奥(そしてそれに続く天上)にあると考えていた事が、万葉集にいくつか残る死者を悲しむ挽歌から推測できるそうです。故に山中で送り火を燃やすという風習が定着していったものと考えられています。

そして火の祭典へと
戦国時代(1500年代)になると、いくつかの文献が往時の京のお盆の様子を伝えております。それによりますと当時は、お盆のはじめから、旧暦の7月終わり頃まで、燈籠や提灯で街々や家を飾り、大燈籠の回りでは人々が踊りに興じていたとの事です。 また、鴨川には数多くの人が出向き、松明を空に投げて、霊を送ったとされ、その様は瀬田の螢のようであった(当時から瀬田の螢は有名だったらしい)と記されています。1567年に上洛を果たした織田信長もその華やかさを見て喜び、お盆の時に安土城を無数の提灯で飾り、武士達が松明を手に舟で琵琶湖にのり出し、光の祭典を演じたと記されています。当時の京のお盆は、正しく火(明り)の祭典だったと言えます。

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◆ 大文字の謎、そして諸説

文献にみる大文字
京のお盆の様子を伝える文献は戦国時代から見受けられますが、大文字の送り火については、公家の舟橋秀腎の日記「慶長目件録」の慶長八年(1603年)の7月16日のところに「鴨川に出て山々の送り火を見物した」と記されているのが最初となります。ただここでも「寄り道がてらに見物した」ようにうかがえ、いつから始まったとは書かれておらず、この時にはすでに、お盆の風物詩となっていたかのような感じを受けます。1600年代半ばになると、関ヶ原の合戦も終わり、すっかり天下大平となった日本では一大旅行ブームが起こります。江戸では多くの旅行案内書が出回るようになり、その中に「大文字の送り火」が数多く登場してきます。しかし、この時にはすでに、大文字の起源は謎になっており、その起源をいろいろと考察、議論する書物も出回り始めます。

弘法大師説
江戸時代初期から、いろいろと研究されはじめた大文字の起源ですが、その中でも代表的なものが、「平安時代初期の弘仁年間(810〜824)に弘法大師が始めた」というものです。その理由としては、(1)代々、大文字の送り火をおこなっている浄土村は大師ゆかりの土地である。(2)大文字の山自体も大師の修行の地の一つであった。(3)あの大の字の筆跡は筆の名匠、弘法大師のものである。(4)大文字山の斜面はかなりの高低差のあるデコボコしたもので、そこに地上から綺麗に見える大の字を設置するのは大師にしか出来なかったのではないか。などがあります。なお京都の人の間では「弘法さんがはじめはったんや」と代々、伝承されています。

足利義政説
もうひとつの代表的なものに「室町時代中期に足利義政が始めた」というものがあります。その理由は、「大文字の送り火の正面は足利将軍家の旧室町幕府跡に向いている」というものです。また大文字山の麓には足利家ゆかりの銀閣寺もあります。旧室町幕府は現在の烏丸今出川の北側、同志社大学と相国寺の西側にあったとされ、確かに室町幕府跡と大文字を結ぶ線上にちょうど出町柳の三角州があります。この賀茂川と高野川が合流し鴨川となる出町柳の三角州あたりは、今でも大文字が一番綺麗に見えるの場所として人気があります。

大の字の謎
大文字の送り火では、なぜ「大」の字なのかも実は謎のままです。諸説としては、(1)もともと大という字は、星をかたどったものであり、仏教でいう悪魔退治の五芳星の意味があったのではないか。(2)一年を通して位置の変わらぬ北極星(北辰)は神の化身とみなされており、その北極星を象った大の字を、同じく動かぬ山に灯したのが、そもそもの大文字送り火の起源ではないか。(3)弘法大師は、大の字型に護摩壇を組んでいたところから、大の字にしたのではないか。などがあります。なお京都では、男の子が生まれると、その子の額に大の字を書き、宮参りをするという風習が残っております。

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◆ 近代の送り火、そしてまた謎

苦難の時代
現在では、「大文字」、「妙法」、「船形」、「左大文字」、「鳥居形」の五山で執り行われている送り火ですが、明治以前には、この他に「い」、「一」、「竹の先に鈴(竿に鈴)」、「蛇」、「長刀」の合わせて十山で行われていました。明治になり急速に近代国家を目指した日本では、祖先の霊「大文字」や疫病神「祇園祭」を迷信とし、明治初年から10年間、祇園祭と大文字を禁止しました。その後、再開はされましたが、古式伝統に目を向けなくなっていた当時では、公的、私的な援助を受けるのが難しく、資金難に陥った送り火は昭和初期(第二次世界大戦前)までに次々となくなり、現在の五山になりました。戦後、文化財や伝統保護の気運が再び高まるまでは、大文字と祇園祭にとって苦難の時代だったと言えるでしょう。

なくなった送り火
現在では点火されなくなってしまった五つの送り火ですが、その場所は「い」は市原、「一」は鳴滝、「蛇」は北嵯峨、「長刀」は観空寺村にあったとされています。しかし「竿に鈴」は大正初期まで点火されていたにもかかわらず、その場所が一乗寺だったのか、静原だったのか、西山(松尾山)だったのか、もうすでに明確でなくなってきています。この三ケ所は方角がまったく違いますし、当然、距離もだいぶ離れております。近代にはいってもなお、なぜ大文字については、このような事が起こるのか非常に不思議です。

黄泉の国
このように謎がいっぱいの大文字、もしかすると、静かに暮らす黄泉の国の霊達が、「騒がしい現世の人達にその場所を知られたくなくてあえて記録を消している」のではないか、とさえ思えてきます。夏の夜空にまるで幻のように浮かぶ、大の字、妙法、船、鳥居。その吸い込まれるような不思議さは、現世の煩わしさをひととき忘れさせてくれます。

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◆ 現在の送り火

大文字
お盆の8月16日の夜に、五つの山々に灯る送り火の一つ、それが大文字です。今も昔も送り火の中心として考えられており、江戸末期には送り火の総称として「大文字焼き」と言われていました。明治になると「送り火」と称される事が多くなり、最近になり「大文字の送り火」という総称が使われるようになりました。 場所は銀閣寺の奥、左京区東山如意ヶ嶽(正確には如意ヶ嶽の前山となる大文字山465メートル)にあり、昔から地元の浄土寺の人たちが執り行う行事でした。

五つの送り火と点火時刻
8月16日の夜午後8時、京都市内のネオンがいっせいに消されると左京区東山如意ヶ嶽の「大文字送り火」に火が灯ります。その後に続き、同10分 左京区松ヶ崎の「妙法送り火」、同15分 北区西賀茂の「船型万燈籠送り火」、同15分 北区大北山の「左大文字送り火」、同20分 右京区鳥居本の「鳥居形松明送り火」、と、京都の町をぐるりと取り囲む山々に反時計回り(左回り)に次々と火が灯っていきます。それぞれの送り火が燃えている時間は、約30分と昔から変わらないそうです。これらの五つの送り火を総称して「五山の送り火」とも言われていますが、江戸末期頃は、全部で十の山々で送り火が灯されていたそう。明治から昭和初期にかけて現在の五山になりました。

よく見えるポイント
五山はおおむね京都の町の北方に位置しており、祇園祭が下京の町の人々の祭りであったのに対して、大文字の送り火は上京の人々の行事だったとも考えられています。また御所の天皇から見えやすい山を選んで送り火がされたとも言われています。送り火が綺麗に見える場所としては、すでに中世から鴨川で見物したと文献に残っているとおり、現在でも丸太町通り以北の鴨川、賀茂川、高野川にかかる橋の上から見るのが一番とされています。中でも主役の大文字を見るには、今出川通りの鴨川三角州にかかる今出川大橋からの眺めが最高だとされています。

点火の方法
現在でも松の護摩木と薪が使われており、護摩木は最初の点火用として用いられます。17世紀頃までは松明が用いられ火を燃やす位置を決めるために小石を置いて目印にしていたとされていますが、やがて斜面に穴を掘り、それを火床とするようになります。昭和40年頃になると、全国的に自然の環境保護の気運が高まり、送り火でも穴を穿つことによる山の斜面の自然風化を防ぐために大谷石で作られた火床が設置されるようになりました。

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◆ 地図

送り火

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