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京都の三大祭...  葵祭祇園祭|時代祭

◆ 時代祭の由来と日程

明治生まれの一大パノラマ。
2km、2000人の行列が、明治維新から平安時代へと時を遡ります。

遷都1100年と平安神宮
明治28年、遷都1100年に沸く京都で「第四回内国勧業博覧会」が開催されました。この時、京都はパビリオンとして平安宮大極殿(だいごくでん)の5分の3の模型を建てましたが、その素晴らしさが評判となり、博覧会終了後も『残してほしい』という保存運動が起きました。そこで、この模型の大極殿をそのまま神社として残す事となり、『平安神宮』が誕生いたしました。神社が誕生しますと祭礼(祭り)が必要となります。そこで多くの市民が、この新しい神社のための祭発足に参加し、一大時代仮装行列が考案され『時代祭』が生まれました。古くから都であった京都では、古時代の衣装も多く残っておりましたので、短期間で各時代の装束を揃える事も可能でした。そして、遷都1100年にちなんで、桓武天皇が長岡京から遷都されてきたと伝えられている10月22日が祭礼日に決まりました。なお、桓武天皇の平安遷都は延暦13年(794)で、正確には明治28年は遷都1101年になります。祭礼の行列は、この時から、平安時代から明治維新までの装束に扮するものと決められ、当初、6行列が古い時代から順に巡行しておりましたが、大正時代に入り、『明治維新から平安時代へと時を遡ってパレード』するという、当時では、人々を驚かせる発想の転換を経て、現在では18行列がパレードしています。

時代祭の日程と巡行コース
2000人の市民が、各時代の装束に扮し、道中4.5kmをパレードする時代祭は、その先頭から最後尾まで2kmにわたる長大なものです。祭礼は、まず午前中に平安神宮より神幸列が京都御苑に到着し、行在所(あんざいしょ)祭が執り行われます。そして、いよいよ正午。『ピーヒャーラドンドンドン』という維新勤王隊の鼓笛隊のマーチとともに行列行進が始まります。総勢2000人と多数の牛馬が京都御所の建礼門前を順次出発し、京都御苑の堺町御門をくぐりぬけ、まずは烏丸丸太町〜烏丸御池と南に進みます。次に、河原町御池〜河原町三条〜京阪三条〜三条神宮道と西に進み、最後に神宮道〜平安神宮へと向かいます。先頭が平安神宮に到着するのが、午後2時頃の予定です。

問い合わせ: 京都市観光協会 (TEL.075-752-0227

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◆ 時代祭の隊列

維新勤王隊列
官軍に参加した丹波山国村の郷土が組織した山国隊列。『ピーヒャーラドンドンドン』という鼓笛で盛り上げながら先頭を行進する。

幕末志士隊列
吉田松陰、桂小五郎、坂竜馬など、銘じ維新のヒーローが目白押し。

徳川城使上洛列
徳川幕府が皇室への礼を示すために行った上洛行列を再現。先頭の奴(やっこ)がかけ声とともに槍を投げ渡し合う。

江戸時代婦人列
徳川家重に降嫁した孝明天皇の妹、皇女和宮など、江戸時代を代表する女性達とその侍女たちの行列。

豊公参朝列
慶長2年(1597)、我が子、秀頼の元服の報告に御所へ参内した秀吉の行列。最正装の牛車(ぎっしゃ)に大名や従者が続く。

織田公上洛列
永禄11年(1568)、鉄砲隊、弓矢隊を従えての戦国武将らしい上洛ぶりを再現。

楠公上洛列
元弘3年(1333)、隠岐から還幸された後醍醐天皇を迎えて上洛する楠木正成。甲冑の美しさが評判で、楠公は紫裾濃(むらさきすそご)の大鎧を着用している。

中世婦人列
豪華な衣装の淀君、白拍子姿の静御前、薪を頭に載せる大原女などの中世女性たちの行列。

城南流鏑馬(やぶさめ)
承久3年(1221)、後鳥羽上皇は、城南離宮に近畿十余国の流鏑馬の名手を集めて競わせ威信の衰えていない所を示そうとした。

藤原公卿参朝列
平安中期以降の藤原氏の優美で華麗な参内ぶりを再現。

平安時代婦人列
中世婦人列木曾義仲の愛妾、巴御前。牛若丸の母、常磐御前。紫式部、清少納言、小野小町らが華麗に行進する。

延暦武官行進列
延暦20年(801)の征夷大将軍、坂上田村麻呂の出陣姿。古式な兜、矛、盾などが目を引く。

延暦文官参朝列
延暦年間の文官たちの参内の様子。

神け講社列
時代祭当日の神け物を奉献する役わりの神け達。

前列
神幸列の前を行く、雅楽の達人たち。

神幸列
孝明天皇、桓武天皇の鳳輦を要する時代祭のメインの行列。

白川女献花列
白川女(しらかわめ)は、昔、頭に花を載せて売り歩いた。

弓箭組列
明治維新の時、山国隊とともに官軍に参加した丹波の弓の名手たちが、時代祭の最後尾を守る。

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