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◆ 平安時代の女性達

この時代にはまだ、道徳的にも法律的にも貞操という観念はなく、男女とも恋愛に対して、正直にまた素直に行動していました。結婚も生涯の間で何度もなされる事が多く、時間をかけて愛を育み、また愛が終われば、男女とも自分の心に正直に、次の愛を探し、育みました。その中で数々の恋愛や悲恋が生まれ、女性達によって、後世に残る、日本を代表する名作や名歌が数多く残された時代でもあります。一夫多妻制はありましたが、男尊女卑というよりも、当時の新生児や乳児の死亡率の高さから、より確実に子孫を残すための多妻であり、 また誰の子孫であるかを明確にするための一夫であったようです。恋愛・結婚も十分に相手を尊重し、地位や権力を利用するのではなく、その心根だけで愛を成就させようとした、ある意味、非常に美しい時代でした。その中で、世界最古の長編小説となる『源氏物語』などの名作が 生まれました。『GENJI HIKARU』は、近代に入り、各国語に翻訳され、隠れた世界のベストセラーとなっております。また、人間が本来もっている嫉妬、 競争心にも正直で、この時代の人間模様や文学に深さを与えています。平安時代を通して、多くの美女が登場しますが、その全員が文学や歌に優れた芸術的感性の高いインテリジェンスであり、容姿よりも、その感性と教養で、多くの男性はもとより女性にも人気を博し、美女としての誉れを高くした感があります。確かに、この時代には、まだ庶民の女性の記録はなく、感性やインテリジェンスは貴族女性だけに求められた素養だったのかもしれませんが、中世に入り、庶民の記録も残されるようになってきても、やはり芸術や教養に優れた女性が人気を集める事が多いように思われ、古代から中世の日本では、女性の容姿は長く豊かな黒髪と綺麗な衣装で良しとし、後は、豊かな感性と教養で、その評価を上げていったのではないかとさえ思われます。

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◆ 謎の美女 小野小町 〜平安前期〜

謎の美女、小町
ご存じのとおり世界三大美女の一人として有名で、ある地域や集団の中での一番の美人を指す『○○小町』の語源ともなっています。その語感から、なにか町娘のような感じがしますが、れっきとした平安王朝の貴族の娘だったそうです。しかしながら、あまりにも氏素性などの記録が残っていないところから(生没年も不明のままです)、さほど身分が高かったわけではなく、おそらく「菜目(うぬめ)天皇の側で食事などの給仕役」として宮仕えをしていたのではないかといわれています。初の勅撰(国選)和歌集『古今和歌集』で六名の名歌人『六歌仙』として、ただ一人選ばれ女性でもあり、他に百人一首などに多くの名歌を残しています。京都以外にも、小野小町の生地や没地としての小町塚が多数あり、その事も小野小町の謎となっています。

小町の実像
世界三大美人に入るくらいですから、筆舌しがたい美人で、歌の才でも卓抜した才能の持ち主だった小町ですが、恋多き女で、数々の男性を翻弄し、浮き名を流したとされています。しかし、実は小町が残した数々の名歌以外の事ははっきりと分かっておらず、また写真もテレビもない時代に、後世までその美しさが全国に伝わるというのも不思議な話しです。そこで、勝手な推測としてここで小町像を探りますと、『女性でただ一人六歌仙に選ばれた小町は、それはすごい美人だろう』という想像で『日本一の美女』としての評判が全国にたち、それにあやかって多くの小町塚が全国に作られた。若い頃の小町は、短袖の着物に短かめのロングヘアーという軽快な服装で(十二単に超ロングヘアーという装束は平安中期になってから現れたとの説があります)テキパキと宮中の仕事をこなし、女一人でつらい宮中勤務にじっと耐え、晩年は生地の陸奥(秋田、ここが小町の生地だったとの説もある)に帰り、静かに暮らした。という姿も浮かび上がってきます。 小町の有名な歌、 『花の色は移りにけりないたずらに、我身世にふるながめせしまに』 (無為に人生を過ごしている間に、すっかり自分は女のさかりを過ぎてしまった)は、女性としての美しさが失われていく悲しさを歌ったものとは限らずに、人生の峠をこせば誰でも感じる寂しさを歌ったもの。 『いろみへでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける』(花の移ろう姿以上に、人の心は変わっていくものよ)は、自分が絶世の美女として伝説化されていくのを困惑している様子、という解釈では、小野小町を少し美化しすぎでしょうか、あるいは、奔放な小町像をあまりにも地味なものにしてしまったでしょうか。

小町の後生
小町に残されている逸話としては、小町が老後になってからのものが多く、その多くは、『若い時には美しい事を良いことに、数多くの男性を手玉に取り袖にもしていたが、年老いてその美しさが失われてからは、乞食にまで落ちぶれて、果ては路傍で野垂れ死に、ドクロとなってまでも、まだ歌を詠んでいた』などのヒドイものが多いです。これらの逸話は、『いくら美しくとも生あるものは、やげて朽ちて醜くなる』『奢り高ぶる人は、やがて人々に見向きされなくり、寂しい人生を送る』などの、仏教思想の教えとして、後の世に作られたものです。絶世の美女と評判になってしまった小町にとっては迷惑な話しかもしれません。 たしかに、それほど、小町は美しく、多くの男性を翻弄したのか、あるいは、何か悟りを開いているように見える小町が、男性を相手にせず恨みを買っていたのかもしれませんね。

深草少将との悲恋
有名な小町の逸話のひとつ…宮中勤務を退いた後も美しさの衰えなかった小町に、連日連夜、色々な男達が言い寄っていました。その中で深草少将だけは小町の目にかない、『百夜通えば、そなたと付合おう』と少将に伝えました。それを聞いた深草少将は、毎夜恋文を届けに深草の地(現伏見区)から洛北の小野荘まで通いはじめます。無事に九十九夜を通いつめましたが、最後の百夜目に雪の中を小野荘に向かう途中で深草少将は凍死してしまいます。 嘆き悲しんだ小町は、今までの恋文を燃やし、その灰で地蔵を作り深草少将を弔ったというお話しです。
※深草少将とは... 現在の伏見区深草にいたとされていますが、その実在はまだ謎のままです。似た人物が京都と奈良の県境い京都府井出町にいたという説もあり、この人が少将なら年代的にみて、小野小町は華やかな宮中勤めとは関係のない少将の庇護を受ける本当の深淵の佳人という事になります。なお井出町には有名な小町塚があります。

世界三大美人
【クレオパトラ7世】 紀元前1世紀のエジプト、プトレマイオス朝最後の女王、 その美貌と知性で、凋落していた王朝の復興を計るが、オクタビアヌスとの戦争に破れ、300年続いた王朝は滅びました。クレオパトラは我身を毒コブラに噛ませ自殺。没年39才。
【楊貴妃】(719〜756年) 8世紀の中国の唐の皇帝・玄宗(げんそう)の妃。 美人であり、また相当に色っぽい人だったらしいです。楊貴妃との愛欲生活に溺れた玄宗は、すっかり政務を怠り、ついに安史の乱が起こりました。玄宗は、都を追われ、楊貴妃は責任を取らされ処刑される事となります。 「傾城の美女」の語源。没年38才。
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この二人にくらべて、小野小町は、まだ世界に名前も知られていなかった東方の果ての小国、日本の下級貴族の娘。 当然、小野小町を加える世界三大美女は日本だけのもので、国際社会を目指した近代になってから言われはじめられたようです。一般的には、世界の三大美女には小野小町の変わりに『ヘレネ』というギリシャ神話の中の美女が加えられるのが多いそうですが、それぞれの国で、独自の世界三大美人が作られている事が多いようです。なお、アレキサンドリア(クレオパトラ)、長安(楊貴妃)、平安京(小野小町)と3人とも都の人でした。

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◆ 女の競演 〜平安中期〜

紫式部むらさきしきぶ 〜ユネスコの『世界の五大偉人』の一人として唯一選ばれている日本人〜
彼女の著書『源氏物語』は世界最古の長篇小説で、『HIKARU GENJI』として各国語に翻訳され隠れたベストセラーとなっているなど、私達が思っている以上に世界的評価が高いです。しかし残念な事に、当時はまだ、皇后などの高貴な女性以外の記録は残される事がなかったため、詳しい生い立ちなどは分かっておりません。通説では、越前守だった藤原為時の娘として970年か973年に生まれ、1014年もしくは1031年に死去したとされています。幼い頃からその文才は際立っていて、父・為時にして『口惜しう、男子にて持たらぬこそ幸なかりけり(男子に生まれていればのう)』〜紫式部日記より〜と言わしめたといわれます。結婚は晩婚で998年(式部25才か28才の時)山城守の藤原宣孝(父・為時の上司で式部の20才年上)と結婚し一人娘の賢子(けんし)を生んでいますが、夫の宣孝は結婚3年後の1001年に亡くなります。その後1005年頃、一条天皇の中宮(妃の一人)彰子(しょうし)の女房役(教育係)として出仕しはじめ、彰子の頼みにより源氏物語を書き始めたと言います。『源氏物語』は1010年頃に完成したとされています。その後、この1010年までの事を『紫式部日記』としてまとめた後、式部の消息は判然としなくなります。なお、一人娘の賢子も勅撰歌人(天皇によって選ばれて歌人)で百人一首に選集されるなど、母を凌ぐ歌人となりました。

清少納言せいしょうなごん 〜紫式部の好敵手、『枕草子』の作者〜
966年ごろ、祖父は古今集の代表歌人 清原深養父(ふかやぶ)、父は同じく三十六歌仙の歌人 清原元輔の娘として生まれました。その後小納言は、一条天皇の中宮、定子(ていし)に仕えるようになります。同じく一条天皇の中宮彰子に仕えるようになる紫式部は、年令も宮廷生活でも後輩という事になりますが、先輩である清少納言に強い反感をもっていた事は有名です。小納言は、どちらかと言うと直感で判断し、宮廷でも目立つように知識を披露するのに対し、式部は、じっくりと準備をし文章を作るように、宮廷でも目立つ事をさけ、見識深いのを隠していたとも言います。小納言の父も、式部の父と同じく受領(地方官吏、天皇の命により地方の監督をする)でしたが、式部の父 為時は人付き合いがヘタで長い間仕事に就けず、式部は貧しい幼年、少女時代を過ごしたともいいます。なお、小納言は、定子の没後、庵をむすび定子への念仏を唱えながら晩年を過ごしたと言い伝えられています。謙虚な式部が陰険とされ、無邪気に自分の知識を披露する小納言のほうが朗らかな人というのが当時の評判であったらしいという所が面白い。なお、庵に引きこもってからの小納言はボロ着をまとい、落ちぶれた小納言を冷やかしに来た人々に罵声を浴びせたという逸話もあり、どうも後世の儒学の影響か、小野小町といい清少納言といい、機智にとんだ利発な女性には風あたりが強いように感じられます。

和泉式部いずみしきぶ 〜才色兼備の情熱の歌人〜
976年、越前守 大江雅むねの娘として生まれたとされていますが、没年は分かっておりません。勅撰和歌集に二百四十七首も収録された当代きっての歌人で、その奔放な恋愛と歌に後世のファンが多いです。20才ころ、後に和泉守となる橘道貞と最初の結婚。娘の小式部内侍(ないし)を出産しますが、夫 道貞が和泉の国(現在の堺)に単身で赴任すると、十名近くの男性と恋愛遍歴をくり返すようになります。やがて冷泉天皇の皇子、為尊(ためたか)親王と本当の恋に落ち、夫を捨てる事となりますが、為尊親王は1002年26才で死去、その1年後に為尊親王の弟 敦道親王に求愛され、当時の敦道親王の妻は怒って家を出る事になりますが、敦道親王も1007年27才で死去してしまいます。『和泉式部日記』は、この敦道親王との恋愛の記録で、『和泉式部集』には敦道へ贈った百二十二首の和歌が載っています。当時は、貞操などの観念はなく、結婚していても男女ともに複数の愛人を持つのも普通でしたが、さすがにこの頃になると京の人々に間にも和泉式部は『浮かれ女(め)』と言われるようになります。しかし式部は、日記の中に『先年のちの人には、私の気持ちは分かってもらえます』と記し、事実『黒髪の乱れも知らずうち附せば まず掻きやりし人ぞ恋しき』という式部の歌に触発されて、与謝野晶子は自らの処女歌集に『みだれ髪』という題をつけたとも言われています。その後、1009年に和泉式部は紫式部と同じく一条天皇の中宮 彰子に仕える事になり、そこで知り合った20才年上の丹後守、藤原保昌と結婚し丹後に向かう事となります。1025年、娘 小式部内侍死去、その後1033年以降の和泉式部の消息はつかめなくなりますが、出家して現在の新京極にある誠心院の初代住職になって静かに晩年を送ったとも言われています。なお、この和泉式部が年令的にも宮廷生活においても、清少納言、紫式部の後輩という事になります。

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◆ 禁断の恋 〜平安後期〜

白河法皇しらかわほうおう 〜日本の歴史上最高の権力を手に入れた天皇〜
1034年、宇多天皇から170年ぶりに藤原氏を母に持たない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が誕生し、後三条天皇から皇位を譲り受けた白河天皇の時代になると、宮廷に藤原氏の影響が少なくなりました。白河天皇(1053〜1129)は、8才の堀川天皇に皇位を譲ると、自らは法皇となり完全に政権を握り、有名な『院政』政治が始まります。 それまでの藤原氏が天皇と自分の娘の結婚を押し進め、生まれてきた新しい天皇の外祖父として政権を把握しようとした摂関政治にくらべて白河法皇の『院政』は、天皇の実父が政権を把握する事になり、白河法皇は絶大な権力を誇る事になります。 なお、退位した天皇を上皇(じょうこう)、退位後出家した場合は法皇と呼ばれます。

養女 璋子しょうこ 〜魅惑の美少女〜
白河法皇には祇園女御(ぎおんにょうご)という一番のお気に入りの愛人がいましたが、祇園女御は、ある女子を養子にしていました。この子が後に待賢門院(たいけんもんいん)と呼ばれる、権大納言(ごんだいなごん)藤原公美(きんざね)の子、璋子でした。その子は非常に美しく、白河法皇は文字どおり目に入れても痛くないほど可愛がっていましたが、やがて璋子が少女に育つうち、ついに白河法皇と璋子は男女の関係に発展してしまいます。いくら性におおらかな平安時代でも親子間(たとえ養子でも)の恋愛は御法度でした。後ろめたさを覚えた法皇は、璋子を自分の実孫の15才の鳥羽天皇と結婚させますが、この結婚は、あまり上手くいきませんでした。しばらくすると璋子と法皇は、また逢瀬を重ねるようになり、やがて二人の間に、後の崇徳天皇(すとくてんのう)が生まれます。この時より璋子は待賢門院と名乗るようになります。崇徳天皇が生まれた頃から鳥羽天皇と璋子の仲も良くなりはじめ、鳥羽天皇の実子として後白河天皇も生まれます。

骨肉の争い
白河法皇の死後、崇徳天皇と鳥羽上皇の間で権力争いが起こり、藤原氏を再びバックにつけた鳥羽上皇に若い崇徳天皇は敗れてしまい、後白河天皇に皇位を譲る事になります。この間、待賢門院璋子は骨肉の争いを避けるように京 花園に法金剛院(ほうこんごういん)を建立し、法皇の菩提を弔うように隠棲します。 やがて璋子の死から10年後、異父兄弟である崇徳上皇と後白河天皇は『保元の乱(ほうげん)』で悲劇の兄弟対決を迎え、貴族の時代から武家の時代へと歴史は大きく変わっていく事となります。

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