HOME>京都三大祭 |
葵祭|祇園祭|時代祭 |
葵祭は目に鮮やかな新緑の頃、京都の都大路を飾る平安絵巻。京都最古の祭りです。
賀茂祭(かもまつり) |
葵祭は、平安京建都(794)の百年以上も前から上賀茂、下鴨、両神社の祭礼として行われ『賀茂祭』と呼ばれていました。今でも流鏑馬(やぶさめ)に見られるように、当時は勇壮で荒っぽい祭りで、その荒々しさを見るために近隣近郷から多くの人馬が集まる有名な祭礼でありました。平安時代に入り、嵯峨天王の時代になると、賀茂祭は、石清(いわしみず)八幡宮の岩清水祭や春日祭とともに三大勅祭(ちょくさい、国営の祭)となり、岩清水祭が『南祭』と呼ばれるのに対して、賀茂祭は『北祭』と呼ばれるようになり、一層、著名な祭となっていき、祭といえば葵祭のことを指したといいます。この頃から、賀茂祭は雅びやかな祭りに変化していき、多くの人が美服、美車で参加し、都大路を賀茂神社にむけて行列するようになりました。その後、この行列(パレード)は、一層、華美さを増し『源氏物語』『今昔物語』『徒然草』などの多くの書物に登場するようになります。
葵祭(あおいまつり) |
華麗な服に、美しく飾られた車(牛車、ぎっしゃ)、頭にカモアオイ(フタバアオイ)の花を挿して、華々しく行われていたパレードですが、やがて中世に入ると、財政難により、華やかさは、だんだんと失われていき、ついには1467年から11年間続いたの応仁の乱によって完全に中止となります。その後、華々しいパレードが再開されたのは、それから二百年以上経った元禄七年(1694)のことであり、この時から『賀茂祭』は『葵祭』と呼ばれるようになりました。昔、カモアオイの花を頭に挿して行列した事からこう呼ばれるようになったとも、祭の復興に『葵の御紋』の徳川幕府の多大な援助があったからとも言われています。
現在の葵祭 |
明治になり、東京遷都で一旦すたれた葵祭ですが、明治17年(1884)から再びおこなわるようになり、この時から5月15日が祭日となりました。第二次世界大戦後は昭和28年から再開されています。また、現在でも15日当日には天皇から勅使が遣わされ葵祭が始まります。現在のパレードは、乗尻(のりじり、昔の賀茂競馬の騎手)の騎馬6騎を先頭に
■第1列:平安京の警察であった検非違使(けびいし)のと山城国(現京都)を治めていた山城使およびその従者たち
■第2列:御幣物をかつぎ供奉(ぐぶ)する官人、馬を管理していた馬寮使(めりょうつかい)、紫の藤の花で飾られた御所車
■第3列:勅使と勅使に従う舞人(まいびと)
■第4列:楽を奏する倍従(べいじゅう)と内蔵使(くらつかい)、花々で飾った風流傘(ふりゅうがさ)
そして、十二単(じゅうにひとえ)で腰輿(ようよ)に乗る斎王代と斎王列、それに従う女人たちの列
馬36頭、牛4頭、総勢約500名、まさしく平安絵巻の優雅で華やかな王朝行列が約1km続きます。
流鏑馬(やぶさめ) |
馬で走りながら、馬上から俵の的を弓で射ぬく行事。平安時代以前の葵祭(賀茂祭)の主要行事。太古の昔は実際に猪などを追いかけて馬上から騎射ぬき、腕を競い合っていました。京都に平安京ができる前の葵祭(賀茂祭)は、このように勇壮なものでした。現在では、葵祭にさきだち、5月3日に下鴨神社でおこなわれます。また、15日には2頭の馬でスピードを競い合う、古式にのっとった『賀茂競馬(走馬)』が上賀茂、下鴨、両神社で行われます。
葵祭|祇園祭|時代祭 |
今では「八坂神社」の「祇園祭」として知られていますが、明治維新までは「祇園社」の「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」、略して「祇園会(ぎおんえ)」と呼ばれていました。
祇園社 |
元慶元年(877)、藤原基経が自邸を寄進し建立されたと言われています。正式名称は感神院祇園社。「祇園」という名前は、「平安物語」の冒頭にも出てくる「祇園精舎」に由来し、もともとは、昔インドで須立長者という人が、太子より賜った樹林を惜し気もなく寄進し建立された寺が祇園精舎という名前でした。藤原基経の自邸を寄進して建立したという行為が、その言い伝え似ている所から「祇園社」と命名されました。インドの祇園精舎の守護神が、日本では天神と知られる牛頭天王(ごずてんのう)であったので、平安京の祇園社でも牛頭天王を祀る事となりました。この牛頭天王は、インドの牛の頭に似た牛頭山に住んでいたとされ、その山に自生していた「せんだん」という植物が熱病に効くところから、疫病を防除する神と信じられた。また日本では、この牛頭天王とスサノオノミコトは同じ神だと信じられていました。スサノオノミコトは、一度は神々の国の中で乱暴を働き追放されるが、その後改心し、八俣大蛇(やまたのおろち)を退治するという日本神話のヒーローです。なお、祇園社の建立年は 貞観18年(876)とい う説もあります。明治元年(慶応4年/1868)の神仏分離令のおり、このあたりが、昔「八坂郷」という地名だったところから「八坂神社」と名称変更されました。
御霊会(ごりょうえ) |
古代の人々が最も怖れていたもの、それは疫病でした。当時、疫病の原因は、疫神の仕業であると考えると同時に、政争などにより非業の最後をとげた者の怨霊の仕業とも考えられていました。その怨霊を鎮め、慰める行事が御霊会(ごりょうえ)です。8世紀末(794)に設立された平安京も、人工の増加に伴い、常に疫病の危険にさらされていました。貞観5年(863)には、政争によって破れて死んだ6名の怨霊を鎮め慰める為の大々的な御霊会を、大内裏の南側の神泉苑で朝廷が行いましたが、この頃になると民衆によって、死者の怨霊ではなく、疫神自体を鎮め慰める為の御霊会が、都の各地で行われるようになり、北野社や稲荷社などでも行われていましたが、なかでも疫病を退治する神、牛頭天王を祀る祇園社の御霊会が一番の賑わいを呈しました。八坂神社の記録によりますと、最初の祇園会は、貞観11年(869)に行われたとされ、六十六本の鉾(ほこ、槍のような武器)を建てたとされています。鉾とは元来、武器になる以前は、先の尖った木の枝の事であり、神の依り憑くものと考えられていて、悪い神をこれに依り憑かせて、後で燃やしたり壊したりして疫神を退治したとされています。最初の祇園会の鉾も槍のようなものではなく、木の棒のようなものだったといわれています。
お旅所 |
祇園社建立から約一世紀後の天延2年(974)、高辻東都洞院にお旅所(本社の神仏の出張所のような所)を朝廷より賜り、旧暦の6月の7日に祇園社からお旅所へ、14日にお旅所から祇園社へと3基の神輿の巡行が決まりました。これが祇園祭の正式な発足だとされています。保延2年(1136)には冷泉院東都洞院に新たなお旅所を賜まり、最初の高辻東都洞院の大政所のお旅所は、後に今の四条京極に移されました。
葵祭|祇園祭|時代祭 |
明治生まれの一大パノラマ。2km、2000人の行列が、明治維新から平安時代へと時を遡ります。
遷都1100年と平安神宮 |
明治28年、遷都1100年に沸く京都で「第四回内国勧業博覧会」が開催されました。この時、京都はパビリオンとして平安宮大極殿(だいごくでん)の5分の3の模型を建てましたが、その素晴らしさが評判となり、博覧会終了後も『残してほしい』という保存運動が起きました。そこで、この模型の大極殿をそのまま神社として残す事となり、『平安神宮』が誕生いたしました。神社が誕生しますと祭礼(祭り)が必要となります。そこで多くの市民が、この新しい神社のための祭発足に参加し、一大時代仮装行列が考案され『時代祭』が生まれました。古くから都であった京都では、古時代の衣装も多く残っておりましたので、短期間で各時代の装束を揃える事も可能でした。そして、遷都1100年にちなんで、桓武天皇が長岡京から遷都されてきたと伝えられている10月22日が祭礼日に決まりました。なお、桓武天皇の平安遷都は延暦13年(794)で、正確には明治28年は遷都1101年になります。祭礼の行列は、この時から、平安時代から明治維新までの装束に扮するものと決められ、当初、6行列が古い時代から順に巡行しておりましたが、大正時代に入り、『明治維新から平安時代へと時を遡ってパレード』するという、当時では、人々を驚かせる発想の転換を経て、現在では18行列がパレードしています。
時代祭の日程と巡行コース |
2000人の市民が、各時代の装束に扮し、道中4.5kmをパレードする時代祭は、その先頭から最後尾まで2kmにわたる長大なものです。祭礼は、まず午前中に平安神宮より神幸列が京都御苑に到着し、行在所(あんざいしょ)祭が執り行われます。そして、いよいよ正午。『ピーヒャーラドンドンドン』という維新勤王隊の鼓笛隊のマーチとともに行列行進が始まります。総勢2000人と多数の牛馬が京都御所の建礼門前を順次出発し、京都御苑の堺町御門をくぐりぬけ、まずは烏丸丸太町~烏丸御池と南に進みます。次に、河原町御池~河原町三条~京阪三条~三条神宮道と西に進み、最後に神宮道~平安神宮へと向かいます。先頭が平安神宮に到着するのが、午後2時頃の予定です。
時代祭の隊列 |
■維新勤王隊列…官軍に参加した丹波山国村の郷土が組織した山国隊列。『ピーヒャーラドンドンドン』という鼓笛で盛り上げながら先頭を行進する。
■幕末志士隊列…吉田松陰、桂小五郎、坂竜馬など、銘じ維新のヒーローが目白押し。
■徳川城使上洛列…徳川幕府が皇室への礼を示すために行った上洛行列を再現。先頭の奴(やっこ)がかけ声とともに槍を投げ渡し合う。
■江戸時代婦人列…徳川家重に降嫁した孝明天皇の妹、皇女和宮など、江戸時代を代表する女性達とその侍女たちの行列。
■豊公参朝列…慶長2年(1597)、我が子、秀頼の元服の報告に御所へ参内した秀吉の行列。最正装の牛車(ぎっしゃ)に大名や従者が続く。
■織田公上洛列…永禄11年(1568)、鉄砲隊、弓矢隊を従えての戦国武将らしい上洛ぶりを再現。
■楠公上洛列…元弘3年(1333)、隠岐から還幸された後醍醐天皇を迎えて上洛する楠木正成。甲冑の美しさが評判で、楠公は紫裾濃(むらさきすそご)の大鎧を着用している。
■中世婦人列…豪華な衣装の淀君、白拍子姿の静御前、薪を頭に載せる大原女などの中世女性たちの行列。
■城南流鏑馬列…承久3年(1221)、後鳥羽上皇は、城南離宮に近畿十余国の流鏑馬の名手を集めて競わせ威信の衰えていない所を示そうとした。
■藤原公卿参朝列…平安中期以降の藤原氏の優美で華麗な参内ぶりを再現。
■平安時代婦人列…中世婦人列木曾義仲の愛妾、巴御前。牛若丸の母、常磐御前。紫式部、清少納言、小野小町らが華麗に行進する。
■延暦武官行進列…延暦20年(801)の征夷大将軍、坂上田村麻呂の出陣姿。古式な兜、矛、盾などが目を引く。
■延暦文官参朝列…延暦年間の文官たちの参内の様子。
■神け講社列…時代祭当日の神け物を奉献する役わりの神け達。
■前列…神幸列の前を行く、雅楽の達人たち。
■神幸列…孝明天皇、桓武天皇の鳳輦を要する時代祭のメインの行列。
■白川女献花列…白川女(しらかわめ)は、昔、頭に花を載せて売り歩いた。
■弓箭組列…明治維新の時、山国隊とともに官軍に参加した丹波の弓の名手たちが、時代祭の最後尾を守る。