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![]() ![]() ![]() 今では「八坂神社」の「祇園祭」として知られていますが、
明治維新までは「祇園社」の「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」、略して「祇園会(ぎおんえ)」と呼ばれていました。 祇園社
元慶元年(877)、藤原基経が自邸を寄進し建立されたと言われています。正式名称は感神院祇園社。「祇園」という名前は、「平安物語」の冒頭にも出てくる「祇園精舎」に由来し、もともとは、昔インドで須立長者という人が、太子より賜った樹林を惜し気もなく寄進し建立された寺が祇園精舎という名前でした。藤原基経の自邸を寄進して建立したという行為が、その言い伝え似ている所から「祇園社」と命名されました。インドの祇園精舎の守護神が、日本では天神と知られる牛頭天王(ごずてんのう)であったので、平安京の祇園社でも牛頭天王を祀る事となりました。この牛頭天王は、インドの牛の頭に似た牛頭山に住んでいたとされ、その山に自生していた「せんだん」という植物が熱病に効くところから、疫病を防除する神と信じられた。また日本では、この牛頭天王とスサノオノミコトは同じ神だと信じられていました。スサノオノミコトは、一度は神々の国の中で乱暴を働き追放されるが、その後改心し、八俣大蛇(やまたのおろち)を退治するという日本神話のヒーローです。なお、祇園社の建立年は 貞観18年(876)とい う説もあります。明治元年(慶応4年/1868)の神仏分離令のおり、このあたりが、昔「八坂郷」という地名だったところから「八坂神社」と名称変更されました。御霊会
古代の人々が最も怖れていたもの、それは疫病でした。当時、疫病の原因は、疫神の仕業であると考えると同時に、政争などにより非業の最後をとげた者の怨霊の仕業とも考えられていました。その怨霊を鎮め、慰める行事が御霊会(ごりょうえ)です。8世紀末(794)に設立された平安京も、人工の増加に伴い、常に疫病の危険にさらされていました。貞観5年(863)には、政争によって破れて死んだ6名の怨霊を鎮め慰める為の大々的な御霊会を、大内裏の南側の神泉苑で朝廷が行いましたが、この頃になると民衆によって、死者の怨霊ではなく、疫神自体を鎮め慰める為の御霊会が、都の各地で行われるようになり、北野社や稲荷社などでも行われていましたが、なかでも疫病を退治する神、牛頭天王を祀る祇園社の御霊会が一番の賑わいを呈しました。八坂神社の記録によりますと、最初の祇園会は、貞観11年(869)に行われたとされ、六十六本の鉾(ほこ、槍のような武器)を建てたとされています。鉾とは元来、武器になる以前は、先の尖った木の枝の事であり、神の依り憑くものと考えられていて、悪い神をこれに依り憑かせて、後で燃やしたり壊したりして疫神を退治したとされています。最初の祇園会の鉾も槍のようなものではなく、木の棒のようなものだったといわれています。お旅所
祇園社建立から約一世紀後の天延2年(974)、高辻東都洞院にお旅所(本社の神仏の出張所のような所)を朝廷より賜り、旧暦の6月の7日に祇園社からお旅所へ、14日にお旅所から祇園社へと3基の神輿の巡行が決まりました。これが祇園祭の正式な発足だとされています。保延2年(1136)には冷泉院東都洞院に新たなお旅所を賜まり、最初の高辻東都洞院の大政所のお旅所は、後に今の四条京極に移されました。![]() 古代〜中世前期
9〜10世紀に始まった祇園社(現・八坂神社)の御霊会「祇園会(ぎおんえ、現・祇園祭)」は、中世前期までは、三基の神輿、十三本の馬上鉾、五匹の神馬、獅子舞、巫女の神楽、田楽の行列が、旧暦の6月7日に祇園社からお旅所へ渡り、14日に祇園社に戻るという日程で行われていました。後にこの日程が現在の太陽暦の7月14日と24日の山鉾巡行と変わり、昭和41年より7月17日の巡行にまとめられました。この当時の馬上鉾とは、武器の鉾(槍のようなもの)を模ったもので、大きさも普通でしたが、この鉾に疫病神がより憑くと信じられていて、洛中の疫病神を吸い取る目的で用いていました。また、この時期の最後のほうには鉾も巨大化して5〜6メートルの長さになり、複数の人で担いでいたとも言われています。そして、このような祭礼の費用は朝廷の命により、裕福な町民が負担しており、当時から町衆によって支えられてきた祭りと言えます。中世中期〜後期
14世紀半ばになると、山鉾が登場してきます。その数はだんだんと増加し、応仁の乱(1467〜1478)の前には58基にもなったと言われます(現在は32基)。現在のように町内単位の山鉾だけではなく、職業組合の出す山鉾などもあったと言われ、山鉾の上で繰り広げられる出し物も、毎年いろいろと工夫されました。応仁の乱後はしばらく中断しましたが、明応9年(1500)山鉾38基として復活しました。その時に巡行の順序をめぐって町人の間で争いが起こったため、クジにより順序を決めました。これが「くじ取り式」の起源です。その後、山鉾の数こそ減りましたが、祇園会はさらに発展し、現代と同じぐらいの賑わいだったと言われています。近世
江戸時代になると、大政所のお旅所が現在の四条京極に移転した事と、祭礼の費用が広く町民に課せられるようになりましたが、行事としての大きな変化はなく、神事・行事内容ともに固定化されて、山鉾の大型化、装飾の華麗さが進み、数も33基に決められ、現在の祇園祭の原形となる「祇園会」が完成されました。比較的順調に執り行われていたこの時代の祇園会も、幕末の激動期には、元治元年(1864)の禁門の変での大火「どんどん焼け」で多くの山鉾が焼失しました。近代
幕末の「どんどん焼け」の焼失から復興されないまま、明治元年の神仏分離令で更に大きな混乱にみまわれましたが、どちらかというと仏教色の強かった祇園社は「八坂神社」として神道の社と変わったものの、祇園会は「祇園祭」として残り、明治十年に巡行日程が新暦(太陽暦)の7月17日、24日に移されました。しかし、これまでは朝廷の命により祭礼の費用が集められていたものが、まったくの氏子だけの負担となり、明治、大正と、資金調達に苦しんだ時代と言えましょう。第二次世界大戦後は、昭和二十二年に長刀鉾一基だけで巡行するという形で復興をとげました。昭和29年には先祭(17日)20基、後祭(24日)9基が巡行し、昭和31年、巡行コースの一部が松原通から御池通に変更。昭和33年、祭りが無形文化財に指定され、昭和36年、寺町通りから河原町通りへと巡行コース一部変更。昭和38〜39年には一手不足のため、人が担ぐタイプの山に車輪がつけられるようになり、昭和41年からは、後祭(24日)に巡行する山鉾も17日に一緒に巡行するように変更されました。![]() 鉾と山の違い
鉾とは、屋根に長大な鉾(槍のような武器)を戴き、直径2メートルの車輪が付き、2階にお囃子の乗っているもの。頭上の鉾に疫病神が吸い込まれると信じられていました。なお、船鉾のように鉾を持たない変型もあります。山とは、鉾の変わりに松の木を戴き、山の上で出し物を演じる数人の者が乗ることはあっても、お囃子ほどの大人数は乗っていません。この松の木にも鉾と同じように疫病神が吸い込まれると信じられていました。なお山には鉾と同じように車輪のついた曵山と、人が担ぐかき山があるが、現在では見えにくい所にタイヤをつけています。くじ取らず
応仁の乱の後、二十年ぶりで再開された1500年、山鉾の巡行の順序で諍いが起きた。以来、くじで順序を決める事になったが、先の巡行先頭の長刀鉾、5番目の函谷鉾、21番目の放下鉾、22番目の岩戸山、先の巡行最後の船鉾、後の巡行先頭の北観音山、次の橋弁慶山、後の巡行最後の南観音山は「くじ取らず」といい、順序が変わる事はありません。縄がらみ
鉾は木製で、その重さが12トンにもなる巨大なものだが、その組み立てには一本の釘も使われていない。代々伝えられた縄だけで組み立てる「縄がらみ」という手法が用いられています。この縄がらみはスプリングの役目も果たし、鉾を柔軟で強靱なものとしており、もし釘で組み立てた12トンもの木造建造物に車輪をつけて引っ張ったら、崩れていただろうと言われています。懸装品
豪華絢爛に飾られる山鉾だが、「鶏鉾の見送り(背面を飾るもの)」のホメロスの叙事詩「イーリアス」のトロイア戦争物語の一場面を描いた綴織(ペルシャ製)。「鯉山の見送り」を飾る16〜17世紀のベルギー製の織物(ともに重要文化財)など、国際色豊か。鎖国の江戸時代中、京の町民が、長崎の出島をたよりに世界各地の品々を取り寄せました。辻回し
鉾の方向転換。地面に青竹を敷き詰め、その上まで鉾の前輪を進めます。水を撒き、すべりを良くしてから、音頭取りの扇子さばきに合わせて曵き手が鉾を横に曵いて、2〜3度を基本として方向を90度転換します。祇園祭り巡行の最大の見せ場で、河原町四条と河原町御池で見ることができます。巡行はお昼まで
山鉾巡行は午前中に終わります。これは鉾(屋根から空へ伸びている部分)に疫神が吸い寄せられると信じられていたので、本来なら疫病神と一緒に鉾も処分しなければいけないのですが、そういう訳にもいかないので、その変わりに早く片付けようとした江戸時代からの習わしです。神幸祭・還幸祭
7月17日に八坂神社から四条京極のお旅所まで、3基の神輿が巡行するのが神幸祭。24日にお旅所から八坂神社に神輿が戻るのが還幸祭です。これが古代10世紀の祇園会の形です。17日の事を「前祭」さきのまつり、24日を「後祭」あとのまつり、と言います。江戸時代までは旧暦の6月7日と14日に行われていました。現在の祇園祭では、「後祭」の山鉾巡行はなくなり、花傘巡行に変わりました。![]()
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